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2019年6月17日 (月曜日)

日本人が英語を話せない ”本当の理由” とは

LIVEJAPANに次のようなページがあります。


世界的にグローバル化が進む情勢で、今日の日本人は最大12年程度の長きに渡り英語と接する状況があるにも関わらず、英語を話すことができない人がほとんど。もちろん、英語以外の科目もあわせて、得手不得手は当然人それぞれ。全くどれもできない人もいれば、全部できてしまう人もいたことだろう。ただ、学校の授業で英語が得意だと言う人ですら、日本人は英語を話すレベルまでは到底及ばないのが現実。でも、これはどうしてだろうか。

本コラムは、日本で教育を受け、独学で英語を習得した筆者が、その過程で感じた日本人と英語との親和性とその違和感についてまとめたものである。

授業で完結せず小手先の学習だけに留まる英語学習

日本の英語教育で足りないこと、それは、実は授業で習ったことを実践したり、実際の用法を正しく学ぶためのメソッドが明らかに欠如していることである。学校の英語教育レベルで鍛錬される英語は、基本的に「読み」「書き」のみ。そして、それらは「試験」を通過するための学習で、実践的なものに費やす時間は僅か。年齢が上がるに従って、長い論文形式のものを扱ったりもするのだが、結局あまり実用的でないことが多い。それでも文法的知識は豊富なはずで、語彙だって全く知らない訳ではなく、たくさんの言葉を知っている。

先生は黒板前の教卓に立ち、生徒たちは静かに先生の授業をノートに取る。こんな昔ながらの日本の授業風景が、英語を学ぶ環境に適しているかどうかと言えば、そうとは言えない。英語力が不十分な日本人教師が教えている場合も少なくない。

近年、授業中に生徒同士、先生との間で英語を話そうという実践型を試みる趣向もないわけではないが、それでも「話しづらい」状況だったり、語学だけでなく様々な能力の習得に不可欠な「失敗して正しい能力を身につけていく」過程が不足してしまっている。基本的には、先生が一人で話し、それをみんなで聞いたり、発音してみたりするだけに終始する。


英語を話すのに ”必要なスキル” に気づけない日本の英語教育

日本では英語の授業でたくさんのことを学ぶのだが、それら学んだたくさんの知識を実践する場がない。実際にどのように使うのかを学ぶ場がないために、結果として使い方がよくわからない。学習したことを実践するための時間が不足しているのだ。実際に外国の方と話す機会も少ない上に、会話やディベート、プレゼンの機会も多くなく、英語での映像鑑賞なども含め、活字以外の英語に触れることがあまり多くない。

新たな言葉を話すのに必要なのは語彙や情報ではなく、スキルである。正しいやり方を知っていても、実際にやってみたらできないという経験がなければ、上手くならないのは当然の原理。会話というのは、実際に言葉にしてみることが何よりも重要。

知識は後からでもついてくる、語彙や熟語を詰め込むだけではあまり意味を持たないのだ。日本の英語の授業とは、言わば「バスケットボールのシュートの打ち方」を毎週文字で教わるようなもので、実践が必要なものを実際に動くことなく学んでいる感覚だ。

”間違い” を恐れ、学びの機会を失う

“間違うことは知らなかった何かを新たに知ること”。この考え方は、当然日本にも存在する。だが、たとえば授業で“誰も外国語を話せない環境”で勇気をだして間違うことよりも、挑戦せずに、間違えずに、恥ずかしい気持ちになるのを避けることを優先してしまうのが日本人の性とも言える。

日本人の "シャイ" な国民性と、その "コミュニケーション力"。常に周囲の人の目を気にして行動する日本人は、シャイさも相まってクラスや人前で話をするのも精一杯だという人がほとんどという社会で育つのだ。

英語を使う必要性が乏しい日本社会

日本人には、英語を選択肢として捉える人も多く、それが必要不可欠なものだとまでは感じていない人がほとんど。特に、東京をはじめとした関東近郊、大阪や京都などの関西圏など、外国人に接する機会の多い地域以外では、英語を必要と思う人の方が少ないだろう。

それなのに、学校教育でも外国語で唯一英語を学び、欧米諸国から毎年多くの人が日本を訪れ、一方的に英語を話したいという意欲、憧れだけが強いのが日本人。外国の方が不思議に思う英語表記も、日本人時点では多くの場合気づくこともできない。英語だからわからない、英語は見た目がかっこいいなどとして、どういう意味か分からないのに身につけてみたり、そもそも疑問に思うことすらもできなかったりする。デザインがよければ、好きなブランドなら買ってしまうという人は多い。

海外から日本に遊びに来られる方には、ぜひ日本で街行く人々のTシャツ等に少し目を向けながら歩いてみて欲しい、街中の至るところで奇妙な英語表現を見つけられるはずだ。
また、グローバル化が進む世界各国と比較して日本が特に珍しいポイントは、日本にいるほとんどの人が日本人だということ。

最近でこそ外国の方も多く移住し、特に大都市では街を歩けば見かけることも増えた。ただ、日本人が必ず英語を話さなければ通用しないというレベルの割合ではないから、”英語を使わなければならない機会に接する確率“ がそもそも少ないのである。

日本人の英語の成長を阻む問題-カタカナ言葉

日本文化の誇らしいところといえば、世界各国から食文化にIT文化まで、ありとあらゆる考え方を吸収して反芻することで日本や日本の企業はめまぐるしく文化的成長を遂げてきたこと。たとえば、オムレツをオムライスに、タコスをタコライスへと昇華させるなど、元来伝わって来たオリジナルの文化を最大限に生かしながら日本のオリジナルのものにアレンジする技術や発想力は非常に長けている。

食文化など言語を介入しないものであれば、海外から入ってくるものを取り入れるのが上手い日本が、英語だけは妙な形で文化に取り入れてしまったのである。

“Television” は “テレビ Terebi” として一般化し、 “Apple” は ”アップル Appuru”、“Table” は “テーブル Teburu”、”Patrol Car” は “パトカー Patocaa”、”Air Conditioning” は “エアコン eacon”、などと、カタカナ言葉が当たり前の言葉となり市民権を得ている日本。これこそが問題である。日本人は常にこういったカタカナ語に触れているために、多くは "black" や "red"、“light” や ”right” が実際に英語でどう発音されるのかを知らない。

英語圏のネイティヴ・スピーカーと会話するときでもエアコンやパトカーが実際に何と言うか分からないので、そのままで通じると思っている人も多いだろう。スマートフォンを ”スマホ” と呼称したり、ファストフードチェーンのマクドナルドを ”マック” と読んだり、俳優の木村拓哉を ”キムタク” と呼んだり、比較的略語を好む慣性も、このカタカナ言葉の形成には大いに関係しているかもしれない。

日本でしか通用しない、日本語には不可欠な言葉「和製英語」

もうひとつ、日本人の英語力の成長を阻むものがある。それは和製英語。
日本人が日常的に使う気持ちの抑揚のさまを表す”テンション”という言葉があるが、これは立派な和製英語。英語の ”tension” は緊張を表す言葉なので、たとえばネイティヴ・スピーカーに気持ちが高ぶっているさまを伝えようと “I’m super high tension! (わたしは今すごくハイテンション!)“ なんて伝えようものなら混乱しか生まない。

そもそも英語の語彙にないものを日本人が勝手に組み合わせて作っているのだから、意味が全くもって通じない。また、自分のイメージや印象を変えようと、長かった髪をバッサリ切って、”見た目を一新すること“を日本語では “イメチェン” と言うが、これも和製英語の顕著な例だ。”I want to image change (イメチェンしたいんだ)” なんて言っても当然伝わらない。これでは文法もおかしいので ”何かしたい” 人でしかない。

さらに、テレビゲームや携帯ゲーム機のゲーム本体 (英語ではそもそもテレビゲームではなくVideo Game) を日本人は ”ゲームソフト” と言うが、これもそもそも ”Software ソフトウェア” がいつしか柔らかいを意味する ”Soft” に変わってしまったのだから和製英語が日本人の英語の発達にもたらす弊害は大きい。

日本のテレビ番組に ”ワイドショー(英語ではTalk Show)” というジャンルがあるが、これも全くの造語。出演者のことを ”タレント” と呼ぶのも、お金持ちを ”セレブ” と呼ぶのも、英語の言葉を全くもって意味を異なる形で使用していて、これらも当たり前のように使われる。英語で同じように使用しても意味をなさない。タレントは ”才能”、セレブは ”有名人” をさす言葉で、ワイドショーなんてもはや英語には存在しないので訳すことも出来やしない。

このように、「試験に合格するための英語」や、「英語を使う機会の少なさ」、「恥を恐れる文化」、「カタカナ英語」、「和製英語」などが大きくの日本人の英語力の増加を阻む構成要素といえるだろう。ただ、これらに気づけず、どれだけ長いときを経ても改善されていかない点が本質的な問題である。

本当は日本人は ”英語を話したい” 人で溢れている。英語の習得のためにどうすればよいのかが分からないから進展しないだけ。まずは実践的に英語を使える環境に身を置くことが大事かもしれない。もし外国人の方で日本を訪れる方は、”日本人は英語を話せないから” と臆することなく、はきはきとゆっくり、シンプルな単語を用いて日本人に話しかけてみよう。すると小さな会話でも日本人とコミュニケーションが取れるし、日本人は外国の方と英語で会話ができたというだけで自信に繋がる。

グローバル化が進む世の中で、日本がより英語が求められる国になっていくのは間違いない。これらの構造を理解して英語をマスターしていくことが日本人にとってもこれから遊びに来る外国人にとってもよりよい世界が広がるとキッカケとなるのではないだろうか。意識的に正しく英語を学ぼう・使おうとすれば、見違えて異なる世界が見えてくるのかもしれない。


大きな間違い
日本でしか通用しない、日本語には不可欠な言葉「和製英語」とか、カタカタの単語があるから英語が下手な訳でありません。むしろ英語が使われているので身近に感じるはずです。日本語を訳すから問題となります。

”間違い” を恐れ、学びの機会を失うので英語が上達しないと言うのも正しくありません。英語は間違いを訂正されながら覚えるものではありません。

間違えればやはり恥ずかしい事であり、大人になれば誤りをする事はなるべく避けるべきです。

英語を使う必要性が乏しい日本社会ではありますが、第二言語とは母語よりは必要性が乏しいものであり、その第二言語を学ぶ場合には避ける事ができない条件です。

日本人が英語を話せない ”本当の理由”正しい英語学習ができていないからです。それはネイティブを真似て、フィードバックで修正する方法です。

ネイティブを真似るのですから、和製英語を覚える心配も、カタカナ英語を使う心配もありませ。

そしてネイティブの真似るのですから、間違いをする心配もありません。ネイティブを真似るのですから使う必要性は低くても自分に必要な勉強や練習ができます。

真似る事でスキルはどんどん上達して、学習そのものが楽しくなります。

 

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